CHAPTER3:コマ割りについて

漫画は、省略の芸術である

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『カバチタレ!』文庫版第3巻385~386ページより[Amazon.co.jpへ

──『カバチタレ!』のDV(ドメスティック・バイオレンス)編は、田島さんご自身の小さいころの、家庭におけるつらい経験がもとになっているそうですね。そのようなディープな体験を、どのようにしてコマ割りという作品のかたちに落としこんだのでしょうか?

田島 昔から、絵画や映画って「省略の芸術」と言われていますよね。『手塚治虫のマンガの描き方』(1997年刊行)にも、漫画を構成している三要素は「省略と誇張と変形」であると記されています。そうやって語られてきたのと同じような意味で、ぼくも漫画を作るのに必要なのはやはり「省略」だと思っているんです。漫画のビジュアルイメージって、最終的にはわずかな数のコマにして伝えることになるわけだから、映像よりもさらに切りつめて、伝えることをしぼりこまなければならない。実体験をもとにしている時なら、なおさら「何を残すのか」を相当にしぼらなきゃ、読者には言いたいことが伝わりません。現実って、作品にするにはいろんなことが絡みあいすぎていますから、そのまま伝えようとしても混沌としたものになってしまいます。まして作者の実体験ともなると、作者の言いたいことが山ほど出るだけになりがちなんです。

『カバチタレ!』でDV編を手がけていたころは、当時の担当編集者が、わざとぼくの子どものころのトラウマを思い出させるようにしつこく水を向けてきたんですね。それで当時の記憶とともに感覚までよみがえってきたんだけど、思い出すと気持ちが悪くなってしまって。さらに東風と一緒に当時ぼくたち親子が住んでいたアパートに取材にいき、それをもとに東風が当時のぼくの家庭の様子を再現した。思い出したくもない記憶を克明に引き出して作品を作ったのですが、その原稿が「モーニング」に掲載されたのを見て吐いてしまいました。また、一度思い出すと当時の怨念のようなものが爆発してしまって1000ページだって書けてしまいそうな状態になってしまった。そこで、DVというテーマをあつかう中でも、さらにテーマをピンポイントにしぼりこむ必要が出てきました。それで担当編集者と話をして、このシリーズでは「ぼくは今、捨てられたんだ」と感じたというエピソードを話の中心軸に据えて、ほかは極力捨てるという方針にしたんです。

当時のことを思い出して作品で言いたかったことの中には、父親に殴られる母親がかわいそうだったとか、自分たち子どもも殴られていただとか、ロクにごはんも作ってもらえずに、ぼくらはごはんにマヨネーズをかけて立ったまま食べていただとか、家はいつもゴミ溜めのようだったとか、それは、いろいろあったんですよ。でも、自分の言いたいことをぜんぶ言っていたらキリがない。いくら社会派作品と言ったって漫画はエンターテインメントでなければならないわけです。だから、「ぼくは今、捨てられたんだ」という視点での軸に沿って「切なさ」だけを抽出することに集中しました。

「切なさ」というメインの感情をしっかり意識していれば、それこそ怨念や怒りなどといった要素も、セリフなどのディテールに、あくまで物語のスパイスとして取り込むこともできる。それによって「切なさ」を際立たせる演出もやれる。そういう作業を経て、『カバチタレ!』DV編の一つのハイライトともいえるタクシーのシーンもできたんです。
 タクシーのシーンでは、子どもたちが母親からお金を渡されて「これで、お父さんのところに行きなさい」と言われてタクシーに乗って父親のところに行くというやりとりがあるんですが、父親は遊びに行っているようでいなかった。で、タクシーの運転手のおじさんが状況を汲んで「さっき乗った場所まで送っていってやろう」と連れて帰ってくれた。すると、母親がほかのタクシーに乗り込もうとしている……。これは、ぼくの実体験なんですけれどね。それで、あ、母親はぼくたちのいない間にどこかに行ってしまおうとしていたんだ、ぼくは今、捨てられたんだ……となるわけです。この見せ場のために省略を重ねてできたのが、このあたりのコマ割りなんですよ。

生き方を描く、見せるということ

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『特上カバチ!! ―カバチタレ!2―』第14巻221~222ページより[Amazon.co.jpへ

──ひとつのシリーズがラストにさしかかるという時のコマ割りでは、具体的にはどのようなことに注意しているのでしょうか?

田島 「朝顔酒店」のおじいさんが、少し認知症になってきたと言われても何とか商売を続けたがっていたというシリーズがありました。じいさんはそのことで息子と対立してしまい、わかってもらえないまま亡くなった。そのあと、葬式に続いてのラストのシーンでは、とにかく「朝顔酒店」「配達先の繁華街」という場所を見せたかった。だから、最後のカットも、配達先の繁華街に続いて店だけを描いてもらいました。
 息子は、事後処理をしながら店の中、配達先の街を父親と同じ立場で見ることになりました。そして「ここがおやじの職場だったんだな」と静かに気づいていく。ここでは父親と対立していた息子が、父親の男としての生き様を実感することによって、親子の和解があったんだと言いたかったんです。朝顔じいさんが遺した2つのもの。1つは、一人の男として仕事をとおして遺したじいさんの「生き様」、そして一人の人間として遺した「息子」、当初対立していた朝顔じいさんの2つの分身が最後に1つに融和した瞬間――そういう意味も込めました。そしてもう1つが、一人の男の「人生の終焉」。
演出はシャッターが降りることで朝顔じいさんの人生の終焉を表そうと決めていました。コマ割りでは、こういった演出意図を損ねないよう、余韻がしっかり残るようなリズムでコマを割るように注意しました。

東風 田島さんからもらう原作は完成度が高く、はじめから1話のページ数に収まるようになっているんですね。ですから、こちらとしてはどう情報を詰めこむかということに気をつける必要はなく、原作をもらったら、まずはそれぞれのコマに出てくるキャラクターの表情をチョコチョコとメモのようにして描くところから仕事をはじめていきます。それで、どのコマをアップにするのか、どのコマを引きで見せるのかなどを考えるわけです。そのあとには、もうできるだけ、それぞれのキャラクターになりきって入りこんで、机の前の鏡を見ながら、自分の顔で演技をするようにして描いていくんですね。眉毛の動きなどは顔の作りによって変わるので、アシスタントに「この顔、やってみて」と見せてもらうこともあります。悲しい物語の時には入れこみすぎて精神的に落ちこむ時もあるから、そういうシリーズの合間にこそ、背景の看板などの下ネタを「オマケ」として入れるようにしているところもあるんです。読者に別の角度からのおもしろさを伝えるという意図だけでなく、そういう「オマケ」によって、こちらの気持ちにも窓を開けて風を通すみたいなところがあるんですよ。