どこにも痕のない咬み傷。
それらとも
お前は戦わなければならない、
ここから。
────パウル・ツェラン
病院の受付で、空白だらけの問診票を提出しながら、
「──電話で先生に、事情は説明してありますので。」と言い添えた。
看護師は、彼の顔を
徹生はそれから、名前を呼ばれるまで、待合室で、自分が一歳半の時に
父、
いつかは自分も、その歳を迎えることになる。それがまさしく、今年だということに、彼は先ほど、問診票の年齢の
今この隣に、死んだ時の父が並んで座っていたならば、その父は、自分と同い年なのだった。
徹生は、鏡を振り返るように、ゆっくりと、誰もいない
父の存在が、突然、肌身に近く感じられた。写真で見知っている姿が、
そんなふうに父の存在を意識したことは、これまで一度もなかった。どんな言葉を交わすだろう? 普通に同い年の男と話すように
徹生は、幽霊や死後の世界といったものを一切信じなかった。彼はそのことで、中学生の時には、級友と
中学三年の時のクラスでは、ちょっとしたオカルト・ブームがあって、昼休みになると、いつも教室の片隅に四、五人が集まり、こっくりさんに興じていた。それが丁度、徹生の席のすぐ後ろだった。
彼はしばらくそれを無視していた。が、ある日到頭、我慢ならなくなって、
十円玉が、聞き返すように、「は」という文字の上で止まった。
「そんなのはどうでもいい! いいか、俺の親父は、俺が一歳の時に死んどる! けど、俺は親父の幽霊なんか、いっぺんも見たことないぞ! もしあの世だとか、幽霊だとかが存在するなら、親父は絶対に、この俺の前に出て来とる! 母親に会いに来とるわ! けど、いっぺんだって、俺は親父の幽霊なんか見たことない! 天国とか幽霊とか、そんなもん、みんな
徹生の言葉に、そもそもこっくりさんを教室に持ち込んだ、青白いオカルト・マニアの級友は、それはオマエの父親の家族に対する思いが薄かったからだと理屈をつけた。徹生が思わず手を出してしまったのは、その瞬間だった。
徹生は決して、ケンカっ早い男ではなかった。人を本気で
子供の頃は、彼もオバケを恐がっていたはずだった。しかし、死んだ父親が出て来ると思ったことは一度もなかった。母の
彼は毎日、布団に入ると、「おとうさん、おやすみなさい。」と、誰にも聞こえないように小声で言ってから目を
ある時彼は、試しに、考えつく限りの悪口を言って、しばらく反応を待ってみた。
もしその翌日に、例えば道を歩いていて、小さな石ころにでも
徹生は、死んだ父が、遺された母と自分のことをどんなに深く思っていたか、それを知っていたから相手を殴った、というのではなかった。そうではなく、知ろうにも知りようがなく、ただ信じているしかないことを否定されて、カッとなったのだった。
殴ったのは相手の顔だったが、本当は、言葉そのものを殴って壊したかった。
以後、徹生は金輪際、人と死についての話をしないと心に決めていた。そういう話題が始まっても、聴かないフリをしてやり過ごしたが、考えそのものは変わらなかった。
死後の世界は存在しない。幽霊も存在しない。人間は死ねば終わりで、あとには骨しか残らない。それは、よく角が取れた川原の小石のように固い彼の信念だった。
四年前に、徹生は図らずも、もう一度だけ、死後の世界について、人と語り合う機会を持った。
高校時代の同級生で、互いの結婚式にも出席し合った友人の妻が、全身にガンが転移して、余命宣告をされた時だった。彼女はその時、まだ二十八歳だった。
見舞いに行った病室には、
友人の話では、余命は四ヵ月で、残すところあと一月ほどしかなかったが、彼女はそもそもの余命を、実際より三ヵ月長く医師に告げられていた。
可能性がないことは、伝えなければならない。しかし、まだ少し先だからと、本人が思いつめてしまわないうちに、死が迎えにきた方がいい。──そういう判断なのだろうかと考えて、それが患者のためになるのかどうか、彼にはよくわからなかった。
辛うじて起き上がって、ベッドの背に
「ねえ、てっちゃん、……人間って死んだらどうなるの? 死後の世界ってあると思う?」
徹生は、彼女の表情を見つめた。その一瞬の、ほんの微かな笑顔のために、彼女に残された本当に貴重な命が、音を立てて燃えてゆくのを感じた。
「てっちゃんのお父さんも、早くに亡くなってるでしょう? 天国から見守ってもらってるとか、……そういうの、感じたことある?」
徹生は、彼女から目を
「うん、あるよ、やっぱり。いつも空の上から見守られてる感じがしてたな。」と言った。
「本当? 天国なの、それは?」
「天国なのか、何なのかはわからないけど、そういう世界だよ、きっと。」
「そっかぁ。この人と違って、てっちゃんは、本当のことしか言わないから、わたし、信頼してるの。天国に行ったら、この人に内緒で、てっちゃんにだけこっそり信号送るね。」
「ヤキモチ焼かれて大変だよ。」
「いいの、いいの。いつもわたしがヤキモチ焼かされてたから。──子供には、わかるのかな? それだけが心配。あの子、小さいから、まだ。」
「わかるよ、きっと。純粋だから、子供の方が。」
病院から帰る時、徹生は、玄関まで見送りに来てくれた友人に、泣いて感謝された。彼が涙を流すのを見たのは、結婚披露宴の最後の挨拶の時と、この時と、そして、丁度一月後の葬式の時の三度だけだった。
徹生は、あの時の噓のことを後悔していなかった。
目の前で、懸命に死の恐怖に耐えようとしている一人の人間が、ただ天国を信じることだけを心の支えとしている。そんな時に、どうしてそれを「戯言」などと言えるだろうか?
それでも、「てっちゃんは、本当のことしか言わない」という彼女の言葉は、彼の中に重たく残った。
そしてやはり、彼の本心は変わらなかった。
父だけではなかった。現に彼女も、死後、彼に「信号」を送ってくれたことは、まだ一度もなかった。そして、それを待ち続けることに、彼はとても耐えられなかった。
「……いいえ、あいづにはもう、梅干しはやんねえです。去年、せっかく分けてやったのに、あとで道で会っても、挨拶一つしねえんですから。……」
平日の午後の待合室は閑散としていたが、一つ前に診察室に入った老婆が、ここ最近の生活を残らずすべて医師に語って聴かせていたので、徹生の名前はなかなか呼ばれなかった。医師は、少し面倒臭そうにその長話につきあっていたが、中断しないのは、自分に会うのを先延ばしにするためではないだろうかと、徹生は感じた。
老婆の話から耳を遠ざけると、彼は、向かいのソファのスポーツ新聞に手を伸ばしかけた。そして、その広告欄に出ている週刊誌の見出しに、息を吞んだ。
〈
落ちつきかけていた不安が、
自分の身に起きた「珍事」を知った数日前には、むしろ麻痺したように何も考えられなかった。しかし、そのことを、
今ここで、自分が身を置いているこの平穏。孤独な老婆が、かかりつけの医師に、近所の主婦の礼儀知らずを、
「──ねえ、今どんな気持ちですか?」
反射的に、徹生は、あの同級生を殴った時のように
落ちつこうと深呼吸をして、彼はポケットからiPodを取り出し、再生ボタンを押した。
目を閉じて、流れてきたのはクイーンの《Save Me》だった。
フレディ・マーキュリーの声を聴きながら、彼はあの日、病室で友人の妻の顔に認めた、命がチリチリと音を立てて燃えてゆく様を思い返した。
大音量のコーラスで、「Save me!……Save me!……」と繰り返され、三度目にそれが叫ばれた時、彼は、腹をグッと固い物で押し込まれたように目頭に涙を溜めた。
自分の中の何もかもが、一瞬、メチャクチャになってしまいそうな恐怖があった。その崩れ始めの、最初の取り返しのつかない振動のように、目頭がピクピクと
『……俺はこんな人間じゃないじゃないか。こんなにうろたえて、……何も悪いことなんかしてない。恥じることなく、ただ、堂々としてればいいんだ。……』
徹生は、気分が落ちつくまで、しばらく待合室の窓から青空を見ていた。そしてまた、気がつけば死んだ父親のことを考えていた。
父の土屋保は、病院とはまったく無縁の健康を絵に描いたような男だった。
子供の頃から柔道をしていたので、
勤労感謝の日の祝日、保は、昼食に妻の作ったうどんを食べて、
妻の恵子は、台所で皿を洗っていたが、異変に気がついたのは、水を止めた時に、これまで一度も耳にしたことがないような、夫のいびきを聞いたからだった。
不審に思って見に行くと、保は仰向けのまま動かなくなっていた。居眠りでないとすぐにわかったのは、額が上の方から、刻々と、
大慌てで救急車を呼び、保は病院に搬送されたが、そのまま到頭、一度も息を吹き返さなかった。死亡診断書には、ただ素っ気なく「心停止」 と記されていた。
父の心臓が止まった瞬間、一歳半だった徹生は、その周りを、よちよち歩き回っていた。彼は母から、何度となく、この時の話を聞かされていたが、どうがんばってみても、頭の中には何一つとして浮かんで来なかった。
徹生の中には、いつも、まっさらな昼下がりの光があった。ほんの
徹生はその瞬間を、いつも追うように、待つように求めていたが、得られるものと言えば、どこからともなく染み出してきた、想像された死の光景に過ぎなかった。
台所で洗い物をする音。窓から差し込む十一月の陽射し。呼吸を止めた肺から抜ける空気の音。不吉な紫色に染まってゆく額。──何もかもが、あまりに母の言葉通りで、決してそれ以上でも、それ以外でもなかった。その紫色が、どんな色だったのか、そのいびきが、どんな響きだったのか、幾ら想像してみても、彼にはわからなかった。
そうして、彼の記憶以前のまっさらな場所には、自分で
徹生にとって、父とはそんなふうに、何から何まで、母から聞かされた話だけが頼りの存在だった。
生きている人間は、日々活動して新しい。変化し、豊富になる。昨日とは違うことを感じて、考え、行動する。それが今日、生きているということである。
しかし、死んだ人間は、ささやかな幾つかの逸話の主人公として、何度でも同じ行為を繰り返し続けるしかない。
徹生が一番印象に残っているのは、彼の産まれた年のことで、筆無精で、普段は十枚も書かなかった年賀状を、父が、この時ばかりは五十枚も買ってきて、「男児誕生!」と、知っている限りの人に書き送ったという話だった。それは図らずも、父がこの世で書いた最後の年賀状となった。
徹生はそれで、自分の誕生が、父を喜ばせたということだけは知っている。父の素朴な人柄を想像している。それが、直接の記憶はない父に対する、彼の愛情の
徹生にとって父とは、そうして、想起される度に、三十六年前の「男児誕生!」を喜んで、今もせっせと年賀状を書き続けている人間だった。たとえ、今の徹生の身に何が起ころうとも、父はそれを知ることも出来ないまま、一人息子の誕生に、ただ
死とは、過去への監禁である。もう決して変えられない生前の行為の中に、死んだ人間は永遠に閉じ込められて、新しいことは何一つ出来ない。鍵をかけるのは、生き残った者たちである。たまたま誰かの目に映り、耳に入った、たった一度きりの行為を、死者は、
病院の待合室の少し固めのソファで、徹生は、腕組みしたまま、汗ばむ手で白いシャツを
彼は、父が閉じ込められている牢獄の
徹生はクイーンが好きだったが、興味を持ったのは、フレディ・マーキュリーがエイズで死に、大きなニュースになった時だった。その後、アルバムを片っ端から聴いていって、本や雑誌を読み、個々のメンバーについても詳しくなった。
ある時彼は、自分がフレディの誕生日1946年9月5日は知っているのに、自分の父の誕生日を知らないことに気がついた。フレディの声は、たとえ無人島に行っても頭の中で再生する自信があるのに、父の声はまったく想像がつかなかった。
そのことを、彼は悲しいとは思わなかった。ただ、不思議だと感じたのを、この時、不意に思い出した。
人間は、フレディ・マーキュリーとして死ぬ方が、土屋保として死ぬよりも幸福なのだろうか?──そんな間の抜けたことを、徹生はこれまで、一度も真剣に考えてみたことがなかった。たった数人の同じように名もない人の記憶にだけ残るよりも、社会全体の記憶として、未来にまで残り続ける方が、「お
父という人間の最も疑う余地のない“生きた証”とは、結局、徹生自身だった。
子供の頃から、徹生と会う父の昔馴染みたちは、皆が口を揃えて、似ている、と笑った。
濃い両眉が、翼を広げてまっすぐ前に飛んでくる、一羽の
自分のついに知ることのなかった父の顔が、他でもなく、自分自身の中に紛れ込んでいる。徹生は、そのことを、窓にうっすらと映った影を見つめながら考えた。
『俺にとっては、息子の
「──土屋さん、土屋徹生さん。」
受付の看護師に呼ばれて、徹生はカバンとジャケットを手に取り、立ち上がった。
診察室から出てきた老婆は、思いつめた面持ちの若い彼と擦れ違うと、どこか
「どうぞ、そちらに。」
中には院長だけがいて、威圧的な四角い
徹生は、自分の顔の上に、三年前の記憶の中の顔が重ね見られようとしているのを感じた。
一礼して椅子に腰掛けると、院長は、「私が、
色白で、鼻柱が磨いたように光っている寺田の顔は、どことなく、ラベルの貼られた、透明の薬瓶を思わせた。
「電話でもお話ししましたが、確かに三年前に、私は土屋徹生さんという方の遺体の検視をしています。ビルからの転落死でした。」
「そう聞いてます。」徹生は、ぎこちなく
「それが、あなただと?」
「それも含めて知りたいんです。僕は土屋徹生です。それは、間違いありませんが、……」
「どうしてそう言えるんです?」
「え?」
「証明できますか?」
徹生は、
「僕は僕ですよ。そんなの、……」と眉を
寺田は、口を
寺田は、顔を上げて言った。「もう一度、最初から聞かせてもらえますか?」
そして、自分自身でその言葉の意味を確かめるように、語を継いだ。
「『生き返った』と、あなたが言っているのは、どういうことなのかを。」
徹生は、背中を伸ばした。そして、寺田の顔をまっすぐに見据えると、「ええ、」と頷いてから口を開いた。
つづく
第2話 傷痕 »