どこにも痕のない咬み傷。


それらとも

お前は戦わなければならない、

ここから。

  ────パウル・ツェラン

第1話 Save Me

 病院の受付で、空白だらけの問診票を提出しながら、徹生てつおは、

「──電話で先生に、事情は説明してありますので。」と言い添えた。

 看護師は、彼の顔を一瞥いちべつすると、それを受け取って、「そちらのソファに掛けてお待ちください。」と言った。あらかじめ、医師から何か聴いている様子だった。

 徹生はそれから、名前を呼ばれるまで、待合室で、自分が一歳半の時に急逝きゅうせいした父親のことを考えていた。

 父、土屋保つちやたもつ享年きょうねんは三十六歳だった。昔から徹生は、この三十六歳という年齢を、自分の未来を照らす暗い星のように仰ぎ見ていた。

 いつかは自分も、その歳を迎えることになる。それがまさしく、今年だということに、彼は先ほど、問診票の年齢のらんを前にしてようやく気がつき、愕然がくぜんとした。本当なら──つまり、こんなに頭が混乱して、冷静さを失っているのでなければ、一番にそのことをこそ考えるはずだった。

 今この隣に、死んだ時の父が並んで座っていたならば、その父は、自分と同い年なのだった。

 徹生は、鏡を振り返るように、ゆっくりと、誰もいないかたわらに目を向けた。

 父の存在が、突然、肌身に近く感じられた。写真で見知っている姿が、曖昧あいまいに頭にほのめくのではなく、一瞬、肩同士が触れ合い、押し合うような、重たく生温かい感触があった。

 そんなふうに父の存在を意識したことは、これまで一度もなかった。どんな言葉を交わすだろう? 普通に同い年の男と話すようにしゃべって、会話は弾むんだろうか?……



 徹生は、幽霊や死後の世界といったものを一切信じなかった。彼はそのことで、中学生の時には、級友となぐり合いのケンカまでしたことがある。

 中学三年の時のクラスでは、ちょっとしたオカルト・ブームがあって、昼休みになると、いつも教室の片隅に四、五人が集まり、こっくりさんに興じていた。それが丁度、徹生の席のすぐ後ろだった。

 彼はしばらくそれを無視していた。が、ある日到頭、我慢ならなくなって、唐突とうとつに振り返ると、そんなものはみんなインチキだと、真剣そのものの表情で言った。

 十円玉が、聞き返すように、「は」という文字の上で止まった。憤然ふんぜんとした参加者達は、すぐ様、それは霊感の鈍いヤツのひがみだとか、科学にもまだ証明できないことがあるとかいった反論を始めた。徹生は、声をあららげて言った。

「そんなのはどうでもいい! いいか、俺の親父は、俺が一歳の時に死んどる! けど、俺は親父の幽霊なんか、いっぺんも見たことないぞ! もしあの世だとか、幽霊だとかが存在するなら、親父は絶対に、この俺の前に出て来とる! 母親に会いに来とるわ! けど、いっぺんだって、俺は親父の幽霊なんか見たことない! 天国とか幽霊とか、そんなもん、みんな戯言たわごとだ! あってたまるか!」

 徹生の言葉に、そもそもこっくりさんを教室に持ち込んだ、青白いオカルト・マニアの級友は、それはオマエの父親の家族に対する思いが薄かったからだと理屈をつけた。徹生が思わず手を出してしまったのは、その瞬間だった。




 徹生は決して、ケンカっ早い男ではなかった。人を本気でなぐったのは、後にも先にもその一度きりで、スッとするどころか、心底嫌な気分だった。すぐに後悔したし、思い返す度に、いつも歯を食い縛って、その光景が頭の中から消えるのを待たなければならなかった。

 子供の頃は、彼もオバケを恐がっていたはずだった。しかし、死んだ父親が出て来ると思ったことは一度もなかった。母の恵子けいこは、「おとうさん、しんでどこにいったん?」とかれると、空の上だとか、お墓の中だとか、あるいは、のこされた人間の心の内だとか、色々なことを言った。徹生はその度に納得したが、天国だとか来世だとかの話を耳にするようになると、父親はきっと、そういう世界にいるのだろうと考えるようになった。

 彼は毎日、布団に入ると、「おとうさん、おやすみなさい。」と、誰にも聞こえないように小声で言ってから目をつむった。父からは何の音沙汰もなかった。

 ある時彼は、試しに、考えつく限りの悪口を言って、しばらく反応を待ってみた。

 もしその翌日に、例えば道を歩いていて、小さな石ころにでもつまずいていたならば、彼はそれを一つの“しるし”として、一生信じ続けることが出来ただろう。しかし、そんなこともないままに年齢を重ねてゆくうちに、いつとも知れず、父への就寝の挨拶あいさつも止めてしまっていた。それがつまりは、彼の結論だった。

 徹生は、死んだ父が、遺された母と自分のことをどんなに深く思っていたか、それを知っていたから相手を殴った、というのではなかった。そうではなく、知ろうにも知りようがなく、ただ信じているしかないことを否定されて、カッとなったのだった。

 殴ったのは相手の顔だったが、本当は、言葉そのものを殴って壊したかった。

 以後、徹生は金輪際、人と死についての話をしないと心に決めていた。そういう話題が始まっても、聴かないフリをしてやり過ごしたが、考えそのものは変わらなかった。

 死後の世界は存在しない。幽霊も存在しない。人間は死ねば終わりで、あとには骨しか残らない。それは、よく角が取れた川原の小石のように固い彼の信念だった。



 四年前に、徹生は図らずも、もう一度だけ、死後の世界について、人と語り合う機会を持った。

 高校時代の同級生で、互いの結婚式にも出席し合った友人の妻が、全身にガンが転移して、余命宣告をされた時だった。彼女はその時、まだ二十八歳だった。

 見舞いに行った病室には、しぼり取られたかのようにせ細った彼女の姿があった。

 友人の話では、余命は四ヵ月で、残すところあと一月ほどしかなかったが、彼女はそもそもの余命を、実際より三ヵ月長く医師に告げられていた。

 可能性がないことは、伝えなければならない。しかし、まだ少し先だからと、本人が思いつめてしまわないうちに、死が迎えにきた方がいい。──そういう判断なのだろうかと考えて、それが患者のためになるのかどうか、彼にはよくわからなかった。

 辛うじて起き上がって、ベッドの背にもたれていた彼女は、徹生に向かって言った。

「ねえ、てっちゃん、……人間って死んだらどうなるの? 死後の世界ってあると思う?」

 徹生は、彼女の表情を見つめた。その一瞬の、ほんの微かな笑顔のために、彼女に残された本当に貴重な命が、音を立てて燃えてゆくのを感じた。

「てっちゃんのお父さんも、早くに亡くなってるでしょう? 天国から見守ってもらってるとか、……そういうの、感じたことある?」

 徹生は、彼女から目をらさないまま、

「うん、あるよ、やっぱり。いつも空の上から見守られてる感じがしてたな。」と言った。

「本当? 天国なの、それは?」

「天国なのか、何なのかはわからないけど、そういう世界だよ、きっと。」

「そっかぁ。この人と違って、てっちゃんは、本当のことしか言わないから、わたし、信頼してるの。天国に行ったら、この人に内緒で、てっちゃんにだけこっそり信号送るね。」

「ヤキモチ焼かれて大変だよ。」

「いいの、いいの。いつもわたしがヤキモチ焼かされてたから。──子供には、わかるのかな? それだけが心配。あの子、小さいから、まだ。」

「わかるよ、きっと。純粋だから、子供の方が。」

 病院から帰る時、徹生は、玄関まで見送りに来てくれた友人に、泣いて感謝された。彼が涙を流すのを見たのは、結婚披露宴の最後の挨拶の時と、この時と、そして、丁度一月後の葬式の時の三度だけだった。



 徹生は、あの時の噓のことを後悔していなかった。

 目の前で、懸命に死の恐怖に耐えようとしている一人の人間が、ただ天国を信じることだけを心の支えとしている。そんな時に、どうしてそれを「戯言」などと言えるだろうか?

 それでも、「てっちゃんは、本当のことしか言わない」という彼女の言葉は、彼の中に重たく残った。

 そしてやはり、彼の本心は変わらなかった。

 父だけではなかった。現に彼女も、死後、彼に「信号」を送ってくれたことは、まだ一度もなかった。そして、それを待ち続けることに、彼はとても耐えられなかった。



「……いいえ、あいづにはもう、梅干しはやんねえです。去年、せっかく分けてやったのに、あとで道で会っても、挨拶一つしねえんですから。……」

 平日の午後の待合室は閑散としていたが、一つ前に診察室に入った老婆が、ここ最近の生活を残らずすべて医師に語って聴かせていたので、徹生の名前はなかなか呼ばれなかった。医師は、少し面倒臭そうにその長話につきあっていたが、中断しないのは、自分に会うのを先延ばしにするためではないだろうかと、徹生は感じた。

 老婆の話から耳を遠ざけると、彼は、向かいのソファのスポーツ新聞に手を伸ばしかけた。そして、その広告欄に出ている週刊誌の見出しに、息を吞んだ。

奇蹟きせき!? 死んだ人間が生き返った! 全国各地で続々と! 驚天動地の衝撃レポート 第一弾!!〉

 落ちつきかけていた不安が、にわかにまたこうじてきた。耳まで真っ赤になって、吹き出した汗で、背中がぐっしょりと濡れるのを感じた。

 自分の身に起きた「珍事」を知った数日前には、むしろ麻痺したように何も考えられなかった。しかし、そのことを、途轍とてつもない数の人間に知られてしまうと想像した瞬間、──いや、想像する間もなく、それを暴露する言葉が目に触れた瞬間、体の方が先に、恐慌をきたしてしまったのだった。

 今ここで、自分が身を置いているこの平穏。孤独な老婆が、かかりつけの医師に、近所の主婦の礼儀知らずを、憤懣ふんまんやる方ない調子で訴えている、この静かな日常。──やがてここにも、こんな世間の喧騒けんそうが、好奇心をよだれのようにしたたらせながら押し寄せて来るのだろうか? それに巻き込まれて、自分は、見知らぬ人間にいきなり腕を引っぱられて、こんなふうに尋ねられるのだろうか?

「──ねえ、今どんな気持ちですか?」

 反射的に、徹生は、あの同級生を殴った時のようにこぶしを握り締めた。──どんなだって?……

 落ちつこうと深呼吸をして、彼はポケットからiPodを取り出し、再生ボタンを押した。

 目を閉じて、流れてきたのはクイーンの《Save Me》だった。

 フレディ・マーキュリーの声を聴きながら、彼はあの日、病室で友人の妻の顔に認めた、命がチリチリと音を立てて燃えてゆく様を思い返した。

 大音量のコーラスで、「Save me!……Save me!……」と繰り返され、三度目にそれが叫ばれた時、彼は、腹をグッと固い物で押し込まれたように目頭に涙を溜めた。

 自分の中の何もかもが、一瞬、メチャクチャになってしまいそうな恐怖があった。その崩れ始めの、最初の取り返しのつかない振動のように、目頭がピクピクと痙攣けいれんしていた。肩で必死に堪えると、彼は、むしり取るようにイヤホンを外して、唾を飛ばしながら二回激しくき込んだ。そして、目をぬぐって、もう一度、拳を額に強く押し当てた。その一点に意識をつなぎ止めようとした。

『……俺はこんな人間じゃないじゃないか。こんなにうろたえて、……何も悪いことなんかしてない。恥じることなく、ただ、堂々としてればいいんだ。……』



 徹生は、気分が落ちつくまで、しばらく待合室の窓から青空を見ていた。そしてまた、気がつけば死んだ父親のことを考えていた。

 父の土屋保は、病院とはまったく無縁の健康を絵に描いたような男だった。

 子供の頃から柔道をしていたので、がたいヽヽヽが良く、勤め先の町工場では、よく昼休みに、工員仲間にせがまれて、ラムネの栓を指で押し込んで開ける特技を披露したりしていた。

 勤労感謝の日の祝日、保は、昼食に妻の作ったうどんを食べて、たたみに寝転がっているうちに、そのまま心臓が止まって死んでいた。

 妻の恵子は、台所で皿を洗っていたが、異変に気がついたのは、水を止めた時に、これまで一度も耳にしたことがないような、夫のいびきを聞いたからだった。

 不審に思って見に行くと、保は仰向けのまま動かなくなっていた。居眠りでないとすぐにわかったのは、額が上の方から、刻々と、とばりりるように真紫に染まってゆきつつあったからだった。

 大慌てで救急車を呼び、保は病院に搬送されたが、そのまま到頭、一度も息を吹き返さなかった。死亡診断書には、ただ素っ気なく「心停止」 と記されていた。所謂いわゆるぽっくり病だった。



 父の心臓が止まった瞬間、一歳半だった徹生は、その周りを、よちよち歩き回っていた。彼は母から、何度となく、この時の話を聞かされていたが、どうがんばってみても、頭の中には何一つとして浮かんで来なかった。

 徹生の中には、いつも、まっさらな昼下がりの光があった。ほんの些細ささいなことでもいい。何か少しでも父について覚えていることはないかと、彼はよく、その何もない光に目をらした。その空白の奥には、居間があり、畳があり、ちゃぶ台があって、満腹で昼寝をする三十六歳の男が一人、自分の身に起きたことが、何かさえもわからないまま横たわっている。

 徹生はその瞬間を、いつも追うように、待つように求めていたが、得られるものと言えば、どこからともなく染み出してきた、想像された死の光景に過ぎなかった。

 台所で洗い物をする音。窓から差し込む十一月の陽射し。呼吸を止めた肺から抜ける空気の音。不吉な紫色に染まってゆく額。──何もかもが、あまりに母の言葉通りで、決してそれ以上でも、それ以外でもなかった。その紫色が、どんな色だったのか、そのいびきが、どんな響きだったのか、幾ら想像してみても、彼にはわからなかった。

 そうして、彼の記憶以前のまっさらな場所には、自分でこしらえ上げたニセモノの父の死体が、そこかしこに打ち捨てられて、むなしく転がっていた。



 徹生にとって、父とはそんなふうに、何から何まで、母から聞かされた話だけが頼りの存在だった。

 生きている人間は、日々活動して新しい。変化し、豊富になる。昨日とは違うことを感じて、考え、行動する。それが今日、生きているということである。

 しかし、死んだ人間は、ささやかな幾つかの逸話の主人公として、何度でも同じ行為を繰り返し続けるしかない。

 徹生が一番印象に残っているのは、彼の産まれた年のことで、筆無精で、普段は十枚も書かなかった年賀状を、父が、この時ばかりは五十枚も買ってきて、「男児誕生!」と、知っている限りの人に書き送ったという話だった。それは図らずも、父がこの世で書いた最後の年賀状となった。

 徹生はそれで、自分の誕生が、父を喜ばせたということだけは知っている。父の素朴な人柄を想像している。それが、直接の記憶はない父に対する、彼の愛情のり所となっている。

 徹生にとって父とは、そうして、想起される度に、三十六年前の「男児誕生!」を喜んで、今もせっせと年賀状を書き続けている人間だった。たとえ、今の徹生の身に何が起ころうとも、父はそれを知ることも出来ないまま、一人息子の誕生に、ただほほを緩めているだけの存在だった。

 死とは、過去への監禁である。もう決して変えられない生前の行為の中に、死んだ人間は永遠に閉じ込められて、新しいことは何一つ出来ない。鍵をかけるのは、生き残った者たちである。たまたま誰かの目に映り、耳に入った、たった一度きりの行為を、死者は、その人らしさヽヽヽヽヽヽとして、何度も何度も、際限もなく繰り返すばかりである。その度に、他の無数のその人らしさヽヽヽヽヽヽを、不平一つ漏らさず、静かに断念しながら。……




 病院の待合室の少し固めのソファで、徹生は、腕組みしたまま、汗ばむ手で白いシャツをつかんだ。彼はまるで、命そのものにしがみついているかのように、自分の腕に強く指を喰い込ませた。

 彼は、父が閉じ込められている牢獄のはかなさを思った。それを完全に消滅させないために、この世界に残っているものとは何だろうか? かたちのあるものか、ないものか。記憶か、物か。言葉か。──

 徹生はクイーンが好きだったが、興味を持ったのは、フレディ・マーキュリーがエイズで死に、大きなニュースになった時だった。その後、アルバムを片っ端から聴いていって、本や雑誌を読み、個々のメンバーについても詳しくなった。

 ある時彼は、自分がフレディの誕生日1946年9月5日は知っているのに、自分の父の誕生日を知らないことに気がついた。フレディの声は、たとえ無人島に行っても頭の中で再生する自信があるのに、父の声はまったく想像がつかなかった。

 そのことを、彼は悲しいとは思わなかった。ただ、不思議だと感じたのを、この時、不意に思い出した。

 人間は、フレディ・マーキュリーとして死ぬ方が、土屋保として死ぬよりも幸福なのだろうか?──そんな間の抜けたことを、徹生はこれまで、一度も真剣に考えてみたことがなかった。たった数人の同じように名もない人の記憶にだけ残るよりも、社会全体の記憶として、未来にまで残り続ける方が、「おしまい」としての死は、受けれやすいものなのだろうか? いずれにせよ、過去へと監禁されなければならない時、両者には、本当のところ、どれほどの違いがあるのだろうか?……



 父という人間の最も疑う余地のない“生きた証”とは、結局、徹生自身だった。

 子供の頃から、徹生と会う父の昔馴染みたちは、皆が口を揃えて、似ている、と笑った。

 濃い両眉が、翼を広げてまっすぐ前に飛んでくる、一羽のたかのようなかたちをしている。それが生き写しだと言った。眉間にはその鷹の顔がひそんでいて、どんなに柔和な表情を浮かべていても、常に一所を見えているような強い印象があった。そして、保のことは、みんなが「やさしかった」と語った。徹生は人からそう言われる度に、その父の評判を思い出した。

 自分のついに知ることのなかった父の顔が、他でもなく、自分自身の中に紛れ込んでいる。徹生は、そのことを、窓にうっすらと映った影を見つめながら考えた。

『俺にとっては、息子の璃久りくこそが、“生きた証”になるんだろうか? そういう考え方は、正しいんだろうか? 息子は息子じゃないのか? しかも今、俺は、その家族とさえ、きずなが断たれようとしているというのに。……』



「──土屋さん、土屋徹生さん。」

 受付の看護師に呼ばれて、徹生はカバンとジャケットを手に取り、立ち上がった。

 診察室から出てきた老婆は、思いつめた面持ちの若い彼と擦れ違うと、どこかやましそうな素振りで、そそくさと脇を通り抜けていった。

「どうぞ、そちらに。」

 中には院長だけがいて、威圧的な四角い龞甲べっこうの眼鏡の奥から、徹生が入ってくる様を注視していた。

 徹生は、自分の顔の上に、三年前の記憶の中の顔が重ね見られようとしているのを感じた。

 一礼して椅子に腰掛けると、院長は、「私が、寺田てらだです。」と、診察らしくなく最初にそう名乗った。徹生は、仕事のクセで咄嗟とっさに名刺を取り出そうとしたが、思い直して同じように名前だけを言った。

 色白で、鼻柱が磨いたように光っている寺田の顔は、どことなく、ラベルの貼られた、透明の薬瓶を思わせた。

「電話でもお話ししましたが、確かに三年前に、私は土屋徹生さんという方の遺体の検視をしています。ビルからの転落死でした。」

「そう聞いてます。」徹生は、ぎこちなくうなずいて言った。

「それが、あなただと?」

「それも含めて知りたいんです。僕は土屋徹生です。それは、間違いありませんが、……」

「どうしてそう言えるんです?」

「え?」

「証明できますか?」

 徹生は、いぶかるふうに言葉を詰まらせてから、

「僕は僕ですよ。そんなの、……」と眉をしかめた。

 寺田は、口をつぐんで首を傾げた。そして、初めて徹生から目を逸らすと、ズボンについた白い糸くずを見つけて手で払おうとした。それが何度やっても取れないので、最後は指でつまんで、床ではなく、足許あしもとのゴミ箱に捨てた。その一連の動作に、徹生は妙な息苦しさを感じた。

 寺田は、顔を上げて言った。「もう一度、最初から聞かせてもらえますか?」

 そして、自分自身でその言葉の意味を確かめるように、語を継いだ。

「『生き返った』と、あなたが言っているのは、どういうことなのかを。」

 徹生は、背中を伸ばした。そして、寺田の顔をまっすぐに見据えると、「ええ、」と頷いてから口を開いた。


つづく